おんなを生きる話し。

 

先日、京都で友人と会った。
心理学の学びを始めたころ、4年前から、親しい。
4年もの付き合いなのに、私は、初めて誘えた。

あれこれ積もる話しが有るようで、なんだかことばに詰まることが多いような、じぶんのことばかり、話しすぎているような。
もどかしさも感じれば、眼の前に彼女が居るのがふしぎな気もする時間だった。

もともと女性らしい女性だったけれど、ますます女性になっていた。

贅沢な時間だった。

 

==

 

その彼女は、マイセンの専門家。
マイセンの蛙のモチーフのペンダントトップをしてた。

蛙の王様かぁ。
と、私は勝手にひとり合点してたけど、訊いてみたらば、ドイツでは蛙はラッキーアイテムで、全てが蛙の王様とは限らないと、教えてもらった。

なんで、蛙の王様、って、あのとき思ったんだっけ?
と、家に帰って不思議がっていたら、直前に読んでいた本に出てきていたんだった。

お姫さまが、蛙と同じ皿で食べ、同じベッドで眠るように言われるが、同じベッドに入るとき、とうとう蛙を壁に叩きつけ、蛙は王子に戻れたという話。

伊藤比呂美著『道行きや』「むねのたが」の章より引用

 

直接には、この章の話しの筋には関係ないけど。その話しが挟まっていたっけ。

これを読んだとき、私は、
「おんなの本音が、かれの呪いを解いた」
って、おもったんだった。

そうそう。
彼女はハートと喉の間のあたりに、蛙のモチーフを付けていた。

そして、この章の最後は、こう締めくくられる。

 話の最後に、ハインリヒという男の挿話が一つついている。彼はそれまで一度も話の中に出てこなかったし、テーマにもぜんぜん関係しない。その一見むだなようにさえ思える話に惹かれて、何度も何度も読み直したものだ。

 

ハインリヒは忠臣で、王子が蛙になったのを悲しんで、胸が破裂しないように鉄のたがを胸にはめるのである。

 

しあわせになった王子とお姫さまが馬車に乗っていると、ぱちーんと音がした。王子が後ろを振り向いて、立ち乗りをしているハインリヒに声をかけた。

 

「ハインリヒ、馬車がこわれる」
「あいや、とのさま、馬車ではござらん、
これは、てまえのむねのたが、
とのさまが泉のなかにおすまいなされ、
とのさまがおかえるどんでござったころ、
きついいたみをしめつけおったむねのたが」

伊藤比呂美著『道行きや』「むねのたが」の章より引用
(引用者私自身が、読みやすさのために少々改行を入れました)

 

色恋沙汰のとんとない私が語るパートナーシップの話しは、「じぶん自身とのパートナーシップ」ていう話しとしていつも見つめるから、これ以降の話しは、彼女のリアルのいろこいのお話しとは関係のない話しです。

ひとりの私は、不自由だ。
ひとりの私は、その不自由さの理由を知っていて口を閉ざす。

ひとりの私が、ただ、口を開き、本音を言う。
ひとりの私は、不自由さから、自由になる。
不自由だったひとりの私を悲しんでいた、もうひとりの私も、自由になる。

おんなの本音は、皆んなを自由にする。

私は、そんなふうに読んだっけ。
どうだったんだか。

おんなおんなって、思ってたから、無理くりそう読んだんだろうか。

隠喩や寓話の読み方は、得意な人へお願いしよう。そうしよう。

ここでは、ただ、私がそう読みたかったんだって、話し。

 

==

この夏の私のテーマは、
「おんな」
だった。

娘として生きていると、どの女に関する役割にも、娘がついてくる。
果ては、どの役割をしていたとしても、役割しか感じなくなってくる。

「もう今までのやり方じゃ、だめなんだ」
私にとっては、「今までのやり方」その象徴のような生き方が「娘」だった。

私は、娘ではない生き方を探ろうとして、どこにも行き場が無くなった。
今までの生き方が、娘としての生き方も、娘じゃない生き方も、娘を軸にした在り方であることは同じだと思う。
そして、行き場が無くなった。

ゼロとは言わないけれど、私には、それはセックスしたら変わるものでもなかったようだ。
きっと、私は、妻や母をやったとしても、おんなじことだったかもしれない。
それでも、ぜんぜん妻や母になっていいとおもうけれど、妻や母になる選択肢を、私は選ばなかった。

当時のリアルタイムの母もリアルタイムの娘も、現実にはもうどこにもいない。
私のこころの中の、じぶんとのパートナーシップのその関係にただ在り続け、現実に映し出す。

当時のリアルタイムの娘としての私の喜びは、なんだったろう?
ただ、母の笑顔で、母を笑顔にできる娘のちからを、受け取ってほしかっただけなのだ。
だから、私がこころの中の娘にしてあげられることは、私がただ笑って、ありがとうって、言って、喜ぶだけの話しなんだよね。

私のなかでの、そのお互い喜んでる関係性の在り方をあらわすとしたならば、おんな、なんだろうなぁ。
って、感じる。

だから、おんな、を生きたらいい。
ただじぶんを生きることだけを、もうやっていい。

ただひたすら、
「私にとっての幸せってなんだろう?」
それをじぶんへ問い続け、片っぱしから、とりかかり、そして、今までの生き方が、孤独と不安への怖れに追われるものであるのなら、これからの生き方は、孤独と不安に正面から向き合うだけのことかもしれないなぁ、なんて、思ってみた。

真っ向から向き合ってみると、意外と寂しくない。
ていうか、寂しかったから、私は娘をいつまでもやっていたのか?って思う。

どうなんだろう。

ふしぎ。
もしかして、とてもシンプルな話しなのかもなぁ。
どうなんだろうなぁ。

そんな私の眼の前に、おんな、に、ますますなっていく友人たちとの再会が現れる夏だった。

==

ああ。
そうそう。
引用の本のタイトルは、「道行き」。

このことばは歴史のときの中で多重に意味され、なおかつ、伊藤比呂美という多様な豊かさの中で複雑なことばの意味を持つ。

道を行くこと、旅をすること。
舞台上の所定の位置に着くまでの間。またその間に奏する音楽。
道中の光景や旅情。
事の経過。
いきさつ。和服用コート。

ぼろぼろの奴隷のように落ちぶれた女が、どろどろに落ちぶれた男をたびに連れ出し癒やす、旅。
説経節の道行きを語る伊藤比呂美の、「道行き」。

私が感じるのは、旅が入れ子になったようなさいちゅうの、旅のいきさつを持つ、おんな。

うん。さて。
こけつまろびつ、おんな、を、生きてみよう。

 

 


 

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[ おんなを生きる話し。 ]日々のこと。2020/08/11 23:49