じぶんの気持ちを優先してみようとするでしょう?
何か、例えば家族なり父、母、恋人もろもろだったり、人によるのだろうけれど、その何か・誰かよりも、じぶんの気持ちを。
そのときに、何か・誰かを見捨ててしまうようにおもってしまう。
感じてしまう。
感じてしまう。
だとしたら、その時点で、自分の何かの気持ち、つまり自分自身を、既に見捨てているんです。
じぶんの気持ちよりも誰かの気持ちが先にじぶんの中に在ったなら、それはそうだよね。
(ここでは、まず「気持ち」であり、その後の「その気持ちがあると認めた後の行動」は、含んでいません)
でもさ、じぶんの気持ちをただ認めることだけって、その「何か・誰か」を、実際、見捨てているかしら?
じぶんの気持ちは、
「ああ。これなんだな」
って思ったとき、でも実際ひどい何かを、相手にしてる?
たぶんそもそもしていないし、じぶんの気持ちを認めた後にする行動は、変わるかもしれないし、同じかもしれない。
じぶんの気持ちを認めたそのあとは、じぶんの、相手への愛を知る時間。
相手に対して、
「そうしたいな」
って思ったじぶんの気持ちは愛だった。
たくさんたくさん、あなたが愛して、愛そうとして、でも愛せなくて、それすらもぜんぶ私は愛したかったからだと、ただ認め知る時間。
じぶんは愛したんだ、まだたくさん愛そうとしているから、今、こうやって苦しんでいるんだ。
っていうじぶんの愛に気づく時間。
ただそれだけだから。
じぶんの気持ち、感じてみてくださいませ。
ほかの誰でもない、じぶんの本音。
もしも、
「じぶんの気持ちを優先する」
という言葉に、
「うーん」
て思われる方は、もしかしたら、ずっとずーーーっと前から、誰かの気持ちを優先する癖があるのかもしれません。
「じぶんの気持ちを優先する」
という言葉に、
「うーん」
て思われる方は、もしかしたら、ずっとずーーーっと前から、誰かの気持ちを優先する癖があるのかもしれません。
いいじゃないですか、ちょっとくらい認めてみても。
愛の偉大さ世界選手権に出場しているわけじゃなし。
愛の偉大さ世界選手権に出場しているわけじゃなし。
ただ、私の愛が、在った。在る。
って。
その後は、
「で、私は、どうしたい?」
という問い掛け。
その問い掛けの元、今までとやってることはおんなじかもしれない。
だけど、その行動は、
「「私が」選んでいる」
っていう動機。
それって、実はぜんぜん違う。
「私は私の愛を、私の愛の偉大さを、知り認め、行き動いています」
今まで見捨ててきたじぶん自身の気持ちって、
この「私の愛」もあるかもしれない。
じぶんの気持ちをただ愛だったし、愛です、って知ってるだけで、なぜか愛だけ在るところに居る上に、誰も見捨ててない、この不思議。
じぶんの愛に、まいった!してみるっていうのはいかがでしょうか~?一緒に撮影した小さい人の誇らしげな表情と、ジーパンカジュアルなのに超女っぽい友人の表情を、ああ!見せてあげたい・・!
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