ごちゃごちゃのまま書いてみる。

わたしのこと。

母と向き合うワークを、三日間ホテルに缶詰してやってみたことを、私の脳みそであれこれ考えちゃうと、綺麗事にまとめちゃいそうだから、今のゴチャゴチャのままで書いていくことにする。

今まで、人生の棚卸しも、母(私の中の「内なる母」)との歴史も書き出すことも、私は嫌がっていたのに、なんで今回ネガティブな内容と、怒りを書き出すことをやってみようと思えたのか?

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以下は、私の私だけのプロセス。

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こないだ、
「私が娘で良かったでしょ?お母さん」
私は、もしかして優しかったんじゃないのか?
を書いた。

私のどっかからやってくる声って、ほんとうに、意味がわかんないけど、(エゴの声でしょ?って疑念が湧くんです)私は心が動いた。

で、普段なら、「だからなによ」って話しで終わるんだけど、
「もしも、私がそもそも優しかったんだとしたなら」
っていう前提は、なんだか、こう、何か、母(私の中の「内なる母」)とのことを考え、アウトプットするときの、主語もない、てにをはもない、嫌ーな感じの世界から、何かこう、抜けさせる何かがあったんだ。

あれはなんだったのか?
ずっと不思議だった。

三日間の母と向き合うワークが終わった朝、何だったんだろうって考えてみれば、

自己価値を受け取って、
アカウンタビリティで物事を見られるようになり、
そこから自分の中での被害者(=加害者)を手放して、
母と私の関係性である罪悪感自動発生装置から(ちょっとは)抜けた。

ってことなんだとおもった。

違うかもしれない。

そして書いておきながら、我ながら、こう書くと、ムカつく。笑。

経過も超絶長いのに。

キレイにまとめやがって。笑

そしてたぶん、その前提の「「もしも、私がそもそも優しかったんだとしたなら」なんて、ありとあらゆる疑念がエゴが常に付きまとう怪しい言葉な上、一生掛けて書く小説くらい、ものすごく複雑で繊細な物語だ。

一歩間違えれば、そして取り扱う人、立場の違う人にかかれば、極悪だろう。

そこでコミットしたのは、
「他の誰でもない、やまだようこの話しだ」
ってことに尽きる。

私の。私だけのプロセス。

他の誰の話にも適用できません。

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そんときは、なんでかわかんないけど、
「もしも、私がそもそも優しかったんだとしたなら」
っていう前提に、理由もわからず納得感があり、何故かそう思えたことで、
(ちなみに、私は常にその状態にはいません。私は仙人でもないんで。言葉は生き物だし。言葉の生き物さを捉えるために、「物語」や芸術がありカウンセラーがいるんだよ、きっと。)

私と母とのできごとを、
「あれは嫌だった」
とか
「クソ野郎」
とか、ネガティブな言葉を書いてもいいんだ、って、思えた。

思えたし、書いてる最中も、前よりも、いやーな感じに陥らず、書き進められたんだと思う。

この「いやーな感じ」っていうのもなくなったわけではない。
このいやーな感じって、「感じ」しか言えないけど、以前は、母(私の中の「内なる母」)と私との関係性のネガティブな言葉を書けば書くほど、より一層自己否定が強まって、自己攻撃を生むばっかりで、いやーな感じになってたんだよね~
それがどんな仕組みだったのかは、またじきにわかるんだと思う。

もちろん、枕をなぐったり暴れたり単純な恨みの単語を数時間に渡って書きなぐったり、そういうのはあったけど、あの、前に書こうとしていたときの重苦しいいやーな感じとは、それはぜんぜん違う感じだった。

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というわけで、私の前言撤回力の素晴らしさといったら!
私は、もしかして優しかったんじゃないのか?
私は、とっても頑固だけど、「これは違ったかなー」って時のじぶんの前言撤回を素直にするところは、好きだなぁ。

ええ。許すことって、たくさんあるんだなぁ。
自分を許す。って。
ていうか、あるんだろうなぁ。
もうどんだけお母さんが好きなんだろう・・。

自分を許せる自分になりたいです。
神さま、お願い!!

仕方ないから、何度も挑戦すると思うよ。

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心ってすごいな。
ほんとうにすごい。
私の語彙力が少なすぎて、こんなしか言えないけど。


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